社屋移転したテレビ局

2005年1月・福岡21さんより、追加情報をいただきました。ありがとうございます。

福島県民放テレビの誕生!?
福島県の民間テレビ局は、ラジオ福島がテレビ予備免許を取得したところから始まります。
1957年にラジオ福島(以下rfc)はテレビ予備免許(JOWR-TV、11ch、3kw)を取得します。ところが、交付の際提示された条件が満たされず、1958年3月、免許失効してしまいます。

福島テレビの開局
1960年11月24日、株式会社福島テレビ(現在の福島テレビとは別会社)にテレビジョン放送予備免許が下り、当時テレビの免許を申請していた5つの申請者が合同して会社を設立することになりましたが、会社の資本払い込みはすんだものの、後ろに全国紙がついた福島民報社と福島民友新聞社の利権争いが凄まじく、激しい争いを繰り返し会社設立が見送られたため、1961年3月1日に予備免許失効しました。2回目の予備免許失効をしたのです。
1962年。結局福島テレビは、福島県が調停に入り、2つの地元紙に主導権を与えず、民放でありながら福島県が株式の半分を保有する特異なテレビ局として、
福島テレビが設立します。そして翌年3月、本社・スタジオ・3放送局が完成。それとともに本免許が交付されました。
1963年3月25日、試験電波発射、サービス放送が開始された。そして遂に1963年4月1日、民放業界初の福島(JOPX‐TV、11ch)、会津若松(JOPY-TV(現在は廃止)、6ch)、平(8ch)の3放送局が同時に開局し、本放送が開始されました。これで福島県にも他の地域から遅れようやく民放テレビが誕生しました。
福島テレビ(以下FTV)は開局時はオープンネット。つまりTBS、日本テレビ、フジテレビ、NET(当時)の番組を放送していました。
(関係ないことですがFTVという略称は福島テレビ開局以前はフジテレビで使用していたようです。ABC朝日放送の10年史に記載されています)

福島テレビの開局
それから数年後の1969年。1968年から起こった「郡山に新しいテレビ局を」の運動で読売新聞系の福島民友新聞社と郡山の財界が福島中央テレビ(以下FCT)を郡山に設立します。そして1970年、福島初のUHFのテレビ局が開局します。これにより、FTVはJNN・NNNのクロスネット。FCTはFNN・ANNのクロスネットになりました。しかし、前述の通りFCTは福島民友のつくったテレビ局。福島民友は読売新聞系なのでFCTが日本テレビ系列でないのはおかしいのです。

そのため、1971年FTVとFCTは日テレ・フジの両社がFTV・FCTの株を交換したことからネット交換し、FTVはTBS・フジテレビのクロスネットに、FCTは日本テレビ・NETテレビのクロスネットとなりました。

ここでここからのFTVの状況を詳しく書きますが、FTVは前述の通りTBS・フジのクロスネット。この場合、TBS優位、フジのサブネット。そのため1971年から福島県ではフジテレビの番組がほとんど姿を消したのです。FTVはJNNに加盟し、ニュースはJNNのものを放送。ただし最終ニュースだけはフジとの関係上、FNNの方をネット。そしてFNSに加盟していました。当時はTBS黄金期。福島からTBSの番組が消えればもちろん視聴者からの反感は強いという理由もあり、フジの番組はあまり放送されていませんでした。一方、FTVで放送されなかったフジ・TBS(TBSの番組で放送されなかったものは「3年B組金八先生」など少数)はローカル枠の「うすい劇場」で放送されました。このうすい劇場では「オレたちひょうきん族」も放送されていて、これの前の時間帯にキー局では裏番組だった「8時だよ全員集合」を放送していたため、非常に濃い2時間だったそうです。(当時の放送を見た私の親の談)

福島テレビの開局
それから10年、福島県は民放テレビ局が4局開局することが確実となり、これはテレビ朝日系とTBS系になることが確実となりました。と、いうことは言うまでも無く、TBSはFTVを切ることにしたのです。これは一説によると、TBSはネット補償金が高額だったFTVを切りたかったから、といわれています。TBSは当時はラテ兼営局で、ラジオを兼営している局とは手を切ると、ラジオでもこの影響が及ぶとして、切らず、テレビ単営だったFTVは切りやすかったともいわれています。

これについては、講談社発行の月刊現代2005年2月号のドキュメントに当時のネット政策の責任者だった、元TBS常務の濱口浩三氏の証言があります。その証言文には「僕(濱口氏)は県が過半数の株を持っている放送局が嫌。小針暦二氏(※)の存在もそうで、当時の社長がネットのことで小針氏と大喧嘩したこともあった。東京が大震災で放送不能になった時に代わりになる系列局を福島に作っておいたほうがいいという考えから、3局目を取りにいこうとした。新局は田中角栄氏が牛耳っていたため、私(濱口氏)はフジテレビの浅野さんと相談に行った。その後、日本テレビの常盤さん、テレビ朝日の松岡さんを交えキー4局で角栄邸で協議した。」と、書いてあり、田中角栄氏は、福島の民放テレビ3局目はテレビ朝日系列、4局目をTBS系列にすると裁定を下したということです。

TBSは3局目をテレビ朝日に譲り、そのかわり「福島放送」という社名を使わないという条件で合意し、テレビ朝日系が福島県に3局目の民放テレビ局として開局することとなりました。みなさんもちろんお気づきでしょうけれど、現在「福島放送」はテレビ朝日系。じゃあ、3局目の社名は?となってしまいます。現在から言えば。当時、テレビ朝日は「福島朝日放送」という社名で郵政省に申請しました。しかし郵政省は「朝日という特定の新聞社の名前を入れるのは好ましくない」とこれを却下。そして再びTBS・テレ朝が話し合いテレビ朝日はTBSから、福島放送の社名を譲ってもらったのです。
こんな話、現在なら通用しませんし、これも皆さんお気づきでしょうけれども、「なぜ福島放送だけ福島朝日放送にするのがだめで、他の県は○○朝日放送にできたんだ」と思いますよね。確かに福島放送より後に出来たテレビ朝日系列はだいたい朝日放送で免許交付されています。(例に挙げると「長野朝日放送」や「琉球朝日放送」など)これは私の調べたところでははっきりしません。

とにかく、テレビ朝日はTBSから福島県3局目の座、「福島放送」の社名を譲ってもらい、1981年10月、福島放送(JOJI-TV、以下KFB)がANN系列とし、開局します。これにより、長年NNN優位・ANNサブネットだったFCTはNNNフルネットになりました。そして長年放送されることの無かったテレビ朝日の番組が福島県で放送されるようになりました。

福島テレビの開局
これで残された問題はFTVだけになりました。
TBSは4局目にフルネット局を開局させることとなり、FTVは・・・。FTVは実際はTBS系列になりたかったのです。しかし、4局目がTBSなのは確実。そしてFTVとフジ上層部により、FTVの持つTBSの株とフジの株の比率が逆転し、FTVはもうフジ系になるしかなかったのです。しかし、現在になって考えてみるとFTVは幸運です。TBS・フジ両局の黄金期をネットできたのですから。

そしてTBSは「福島放送」の社名をテレビ朝日に譲ったので新たな社名を「テレビユー福島」(以下TUF)とし、1983年12月、福島県最後の民放として開局しました。それに伴い、
FTVは1983年3月31日でJNNを離脱、翌日からニュースはFNNになりました。そして、1983年10月、FTVは必要最低限のTBSの番組(例えば花王愛の劇場など)をフジのローカル枠に少数のこし、TBSのネット番組をすべて打ち切り、フジテレビのフルネット局となりました。

こうして福島県は4つのテレビ局が出来ました。そもそも4つ出来たのにも理由があり、東北第2位の人口を有する福島には広告放送が大変重要で4局出来た、これはよくいわれます。

複雑な事情でしたが、このおかげで福島では4大系列がそろいました。



このような複雑なテレビ事情から福島が開放されてから20年以上もたちました。このテレビ局開局にかかわった人々の熱意がいつまでも伝われば、と思います。


※小針暦二氏(元福島民報社社長・元ラジオ福島社長・元福島交通社長)福島県民放4局の株式を所有し、「最後の政商」と呼ばれた大物経済人。1993年死去。


参考文献
・日本放送年鑑1966年版(日本民間放送連盟・旺文社)
・ABC十年(朝日放送)
・テレビ朝日社史ファミリー視聴の25年(全国朝日放送)
・月刊現代2005年2月号(講談社)
その他、私の家族からも当時の放送状況を聞きました。


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